< BRAND HISTORY >
ここ数十年の歴史を振り返るとWestern Addition地区(西側追加地区)はサンフランシスコにおいて最も多民族人種が集まった地域と言えよう。
アイルランド人、イタリア人、ロシア人、ユダヤ人、日本人、更には、アフリカ人等の人種が皆, Western Addition地区をホーム (故郷) と呼ぶようになった。
第二次世界大戦中、そこに住む10万人以上もの日系アメリカ人が収容キャンプへ送り込まれ、彼等が住んでいた家は空き巣となっていく。
当時、急激な成長をしていたアフリカ系人種がそこへ住み着き、
次第にこの地域は中流階級のアフリカ系人種によってナイトクラブやお店で栄え西のハーレムとなった。
しかし、のちにサンフランシスコ市はWestern Addition地区を都市改革の為、1948年正式に 「スラム街」 と指定し、
ここから長い間醜い都市改革を進められていった。
戦後の近代都市化を計ったこの改革はWestern Addition地区を段階A-1と段階A-2の二回に渡り行われ、
この地区に住む住民に肉体的/精神的ダメージを与え西のハーレムとさせたナイトクラブやアフリカ系人種の立ち上げたビジネスを破壊した。
住居をなくしたアフリカ系人種を中心とした20万人の住民はこの都市リニューアルを都市リムーバル (撤去/除去) と軽蔑的に呼んだ。
全てジャスティンハーマン (街の改革者)のおかげ、ありがとよ(いやみ)。
そして皮肉な事に彼の名誉を讃える為サンフランシスコのウォーターフロントに彼の名前のプラザ (Embarcadero Aka EMB) が設立された。
EMB は新しいストリートスケートの メッカとなり数多くのプロスケーターを生み世界からの注目を浴びる事となる。
サンフランシスコに夢を持ち世界中からスケーターが集まる様になったが、永遠に続く物が無いのと同様、
サンフランシスコのスケートスポットも次第に無くなり、
カルフォルニアスケート物語りを求め多くのスケーターは南へ走りロスアンゼルスへと下った。
この様な事態になった今、サンフランシスコをスケート界トップクラスの町として誇張できるのか?
western editionは先祖が作り上げて来たサンフランシスコのスケートシーンを保ち、次世代スケーター達の為に発展させて行く事を試みる。
ここサンフランシスコにはユニークなスケートを生み出す美しさがある。
その美しさは映像として残らなくても参加する者すべてに受け継がれるであろう。
western edition skateboardsの主なアイディアとテーマはWestern Addition地区のヒストリーと地名をかけ合わせた同音異義語である。
サンフランシスコにはスケートボードの他にジャズ 、アートなど豊かな歴史ある街。
western editionではサンフランシスコにおける様々な背景をスケートボードを通して表現していきたい。